喜怒快楽 [思案]
自分でも思うのだが、「何を怒ってるか?の説明」は非常に詳細にしようとする。
だが、「何が嬉しいか?の説明」はあまりやらない。
かなりの屁理屈を放屁してることだろう。
じゃー嬉しい事をしてもらったりした時や、嬉しい時にそれについて説明してるか?
していない!
する必要はあるのか?
あるかもしれない。
でもしてない。
なぜだろう?
痛みというのは正確に伝えなければ!と思うからか?
快感をカウンセリングするドクターはいないもんね。
怒りは説明する事により和らぐからか?
果たしてそうだろうか?
むしろ「売り言葉に買い言葉」状態を招いたり、説明ハイになって更なる怒りを呼び起こしている可能性もある。
それに、そんなに簡単に自分の感情を言語に置きかえれるならばアートなんて文学だけになってしまうし、しかも「短編ばっか」になってるだろう。
説明という旗の下に怒りを「発散」させてるって部分が相当あるんだと思う。
喜びを発散するってことはどうしてやらないんだろう?
喜びは発散しちゃうとなくなっちゃうから「もったいない」のか?
それとも、説明すればするほど物事のパッションはマイナスに向かっていってしまうのか?
もし説明すればするほど同じベクトル上を進んでいくならどんどんやるべきだ。
でも待て、どっちなんだ?
怒りの説明の初めの頃はどんどん熱くなる。
だが、最後は発散効果で沈んでいくぞ。
だから喜びの説明をしないのか?
そう、言葉にならないことをグチグチ言おうとすると白けてしまうからなのか?
じゃー怒りの説明はそれ自体を白けさす為か?
または喜びの状態にある心には愛があり、つまり余裕、許す心があるから「細部まで伝わらなくてもOK」だからか?
じゃーやっぱり物事は深く考えたり明文化すること自体が悪いことなのか?
本当は世の中全て「説明不要」ってことなのか?
疑問を持つことが苦しみの本質なのか?
喜びの本質などはないのか?
怒りを感情表現の視点からみると実は喜びと同等のものだとか?
う~ん、悟りを開こうとする事自体が最大の欲望だ!というジレンマに辿りつくだけなのか。
そういう訳でもう少し怒りの説明を減らして、喜びの表現を増やそうかな~?
なんだその結論?
ハテナで???
ぽ~ん!!!
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